A.はじめに
1月16日にアルジェリア東部の石油プラントで日本人を含む多くの外国人がイスラーム武装勢力に襲撃・拘束された。この事件は、以前にアルジェリアと関わりがあった私にとって他人事ではなく、毎日流されるニュースを暗い気持ちで聞いた。
アルジェリア政府は国民に対し、武装集団は予想できない場所を攻撃するので、外国企業の施設に近づかないよう警告していると聞いて、日本人としては友人から見放されたようで不思議な孤立感を味わった。これは私自身が多くの善良なアルジェリア市民に助けられて仕事が遂行できた達成感と、そこで起こった現実の出来事に大きなギャップを感じたからだ。
ずいぶん古い話を持ち出すことになるが、アルジェリアでの生活の片鱗を紹介しながら以下思い出に少し触れてみたい。
B.アルジェリアの概要
アルジェリアの国土は日本の約8倍、人口は日本の約1/3であるが国土の85%が砂漠である。
先史時代のサハラは草原であったが、紀元前2000年ごろからサハラが乾燥化して砂漠が広がった。
砂漠化の進行は今も続き、私たちが旅行したとき、ガイドが河のような地形を説明するとき、自分の子どものころは水が流れていたというほど凄い勢いで砂漠化は進行している。
2世紀からのローマ帝国の遺跡がそのまま朽ちないで残っているのは、乾燥によるのだろう。
ローマ帝国の末期にキリスト教が伝来し、「キリスト教最大の教父」と呼ばれるアウグスティヌスが生まれている。
しかし7世紀末から8世紀初頭にかけてアラブ人の侵入によって土着のベルベル人たちはイスラーム教に改宗し、住民のアラブ化が進んだ。一方で15世紀にはスペイン系ユダヤ人が沿岸部の都市に定着し、商工業を支えたといわれている。
宗教はイスラーム教の多数派であるスンニー派が国教となっている。
因みにシーア派やスンニー派の呼称は分派や宗派という意味合いがある訳ではなく、イスラーム共同体の「あり方」に関わる問題であって、イスラームの宗教的根幹である神の唯一性や聖典そのものといった信仰箇条については、目立った相違はない。
スンニー派は、イマームの指導を重視するシーア派に対して、預言者の言行を通じてスンナの解釈を行うことで預言者の意思を体現しようとする。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン、慣行、合意、類推の四つの方法を四法源として重視している。
私が親しくしていたイスラーム信者の説明でも、モスクの指導者イマームは、聖職者というより、尊敬されている人、よく勉強している人という存在で、日常は一般人と同じ職業についている。
言語は現在の公用語はアラビア語であるが、フランス語が広く用いられており、南部ではベルベル語も国語となっている。
民族はアラブ人(80%)、地中海民族といわれているベルベル人(19%)その他である。
今回テロを起こしたのは南部のトアレグ人とも報道されている。
国の経済は原油と天然ガスで財政収入の70%、輸出の97%、GDPの36%を占めている。
貿易額は2010年の統計によると日本からの輸出は840億円、輸入は407億円となっている。自分が関与した技術輸出プロジェクトの契約が264億円であったのはアルジェリアにとって相当高い比率を占めていたことになる。
1954年から1962年、フランスから独立を求めて戦争が起こり100万人が戦死した。
私がアルジェリアに赴任した1982年に、ちょうど20年目の独立記念日の祝賀行事があって、国中が熱気に包まれていた。社員の中には父親を戦争で亡くした人も居て、悲しい話を聞かされた。
当時はシャドリ大統領の時代で政権は安定していたが、1992年イスラーム原理主義によるテロが活発化してシャドリ大統領が辞任した。国内は内戦状態になり反政府軍と政府軍に15万人の死者が出たとされ情勢は以後10年間悪化した。今回のテロで軍が強行姿勢をとったのはこのような背景もあるのだろう。
その後に大統領が変わり10年の間に様々な対策がとられて今は一応安定している。
現在の在留邦人は2011年の統計で560人と報告されている。
C.仕事の概要
私が参加したプロジェクトは、年産325万米生産できる高級フィラメント織物工場の建設と製造技術移転の技術輸出であった。従業員は約800人で1977年に契約し、納期は1982年で最初から関わったが少し納期遅延を起こした。
契約当事者は日本側が川崎重工、伊藤忠商事、帝人のジョイントベンチャーで相手方は国立繊維公団であった。私は帝人のメンバーとして、工場のコントロール(管理)技術を移転する仕事を担当した。
工場の場所は、アルジェリア北西の端、地図で見ると地中海に面しているモロッコ国境までわずか25kmのところにある。首都アルジェまで1,000kmあって、タクシーを時速100kmでぶっ飛ばしても10時間以上かかる。仕事が目的の滞在ではあるが、このことを説明し始めると紙面が足りなくなるのでこの程度で後は割愛させていただく。
D.アルジェリア人と宗教
アルジェリアのプロジェクトに加えられることが決まったとき、言葉と宗教の問題が一番心配であった。言葉の問題は、フランス語の技術ドキュメントを3mくらいの幅になるくらい作成しなければならないと聞かされ、これがまず恐怖であった。心配しても仕方がないので、関西日仏学館に通って一生懸命努力したがこれが結構つらかった。何がつらいかといえば、3カ月ごとに進級試験があって、基準点数に満たなければ容赦なく学級のやり直しである。若い京大生に混じっての勉強であるから、若い学生にはどんどん取り残されてこれがつらかった。
しかし、辛いことだけでもなく、今まで知らなかったフランスの文化や習慣なども同時に学ぶことができて、視野も広がってこれは楽しかった。
もうひとつの問題は宗教である。プロジェクトに加わった日本人で宗教問題に悩んだのは私一人だけであったが、この悩みを相談できる人は日本には見つからなかった。
そのとき私がしたことは、何故悩んでいるのか自分の中ではっきり意識化しようと思った。
その結果自覚したことは、自分は代々キリスト教の家系に育ち、小さいころから当たり前のように教会に通い、世間的には敬虔なクリスチャンのように言われてきたが、自分ではクリスチャンとしての満足感はなく、信仰の確信もないまま人生を送ってきた。文献によると、イスラーム教徒というのは、すべての人が神に忠実で命を捧げることも惜しまないように書かれているので、その中に埋没してしまわないかという心配であった。自分の宗教を伏せてイスラーム教徒と付き合えば、イスラーム教徒は挑発してこないだろうと考えたが、自分の信仰を隠すことは神への反逆のようで、この勇気も出なかった。
悩んだ末に出した自分の答えは、今ここで自分がクリスチャンであることの自覚を新たにする道を選んだ。その上でコーランにも目を通し、時間のある限りイスラームについて学ぶようにした。
このときの精神活動が、現在の宗教活動の基になってくるとは当時は思ってもいなかった。
アルジェリアに到着して、これから一緒に仕事をする現地の人と二人で話をする機会ができたとき、日本人なら食べ物は口に合いますかとか、暑くないですかなどの話題から入るのが普通だが、最初に聞いた言葉は「あなたは神を信じますか?」という切り出しであった。「ビアンシュール!」それきたとばかり強い口調で返すことができたのはラッキーであった。
それ以来、宗教は違うが神を信じる日本人として、他の日本人とは違う扱いをしてくれるようになった。
彼が言うには、イスラームの教えでは神を信じない人には心を許してはならない。一緒に食事をすることも許されない、ということであった。
会社の就業時間は8時から5時である。夕方6時からモスクのお祈りが始まるので、男性達はその周辺に集まり8時頃までモスクに出入りしたり、お祈りをしたりしておしゃべり楽しむ。
私はその場所に行って彼等と宗教談義をするのが毎日の楽しみであった。
イスラーム教徒は宗教について語るのが好きで話しによく付き合ってくれた。
旧約聖書モーセ五書はキリスト教と同じであるので話はかみ合ったが、イエスを神と信じるキリスト教と、偉大な預言者として扱うイスラーム教は、そこで大きく開きが出た。
議論していくうちにこちらもだんだん考えが怪しくなってきて、自分が主張している「神」って何?という疑問が出てきてそれが今になっても自分の課題として残っている。
キリスト教の神は唯一と主張しながらイエスの存在を「三位一体」論で解決しようとする。ここを突かれると自分の消化不良が露わに出てしまう。
さて、私がイスラーム教徒と接して一番印象に残ったことは何か。それは理屈抜きに、この宗教はこれからも強力に世界的な広がりを続けるだろうと感じた。
キリスト教の教義や姿勢と大きく違うのは、生活の規範を中心教義にしていて、それを共有することで互いに連帯感を持っている。従って彼らは共通文化を持つ一つの民族のようなものであると思ったからである。
たとえばキリスト教の場合、聖書は一つでも解釈は幾通りもあり、生活規範に関することは少ない。
ところで、アルジェリアでイスラーム教ばかりと接触していたのかといえば、実はキリスト教徒としてのアイデンティティを確認したいという思いも持ち続けていたので、熱心に教会探しもした。
20年前の独立戦争に勝利したとき、すべての外国の宗教は排除して国が教会も接収した。
あちこちのカトドラル風建物は市場や集会所になっていて、誰に尋ねてもキリスト教はもう死んだという答えしか得られなかった。
日本人として江戸時代のキリスト教弾圧の歴史を知っているので、絶対にどこかで息を潜めて一般市民の中に紛れているという確信を持って、会社で何度も聞いて廻った。
ある日、私の部下が自分の村にキリスト教のフランス人が居るとこっそり教えてくれた。
街の中の人ごみが消えて誰にも見えない真っ暗な夜に待ち合わせをして、その家に案内してくれた。
そのようなことが村の人に知れると彼は裏切り者になるので、その場から彼はすぐ消え失せた。
その出会いが、後に日本に帰ってからのカトリック教会との付き合いの始まりになるとは不思議なことである。この話はまだまだ沢山語りたいことがあるが省略する。
案内してもらった家にはカトリックの神父が居住していて、カトリックが中心になって進めているフォコラーレ運動のメンバーであった。帰国後、そのマリノ神父が日本に居るメンバーのシント・ブスケットに連絡してくれたが、シントは後にバチカン神学大学の教授になり、北イタリア神学大学の教授たちを日本の仏教研究に引率して来日した折、私にその案内役を頼んできた。延暦寺の半田座主との謁見に立ち会ったり、月曜会の大江先生の協力も得て妙心寺での仏教との交流につきあったのは最近の出来事である。
E.余暇の楽しみ
週休2日で木金が休みである。そのほかに5ヶ月勤務して1ヶ月の休暇がある。
休みの日にはカトリック神父のところへ遊びにいった。モーターボートでルアーフィッシングをしたり、山へ狩猟にも連れてもらった。彼は沢山の外国人と知り合いで、ポンコツ車で一緒にその家にも連れてもらった。貧しい生活だが、海で魚を取り、山で猪を撃って食料にした。24カ国の人たちと交流した。金曜日は神父の自宅に集まってミサを捧げる。国では異教は禁止されているので現地の人は居ない。24カ国あるのでカトリック以外の教団の信徒が多数含まれる。東方教会やコプト教会の人も居る。
韓国の仏教徒も居たが何の違和感もなく一緒にミサに加えてくれた。カトリック信徒だけという偏狭な考えはみじんも感じられない。このときの体験が、後に私の宗教観に大きな影響を与えることになった。
その教会はかなり古いが日本人が来たのは初めてだという。そこに各国の聖書に混じって日本語の新約聖書が用意されていたのには驚いた。初めてのジャポネに会いに700km離れたアルジェから司教が尋ねてきてくれてとてもうれしかった。このピエール司教は私が帰国後イスラーム過激派に殺害されたと知らされた。
日本人サイトでは、私はリクレーション企画を担当した。ほとんどの日本人はフランス語が使えないので休みの日はサイトでマージャンや読書で過ごすので暇をもて余す。長期間そのような状態に置かれると精神的に不健康になるので、発散する機会を企画してお世話をするのである。
全部が男性であるのできれいごとは言っておれない。私が赴任する前は川崎重工のメンバーが多く、筋骨隆々タイプが多かったのでその人たちに合ったリクレーションが企画されたが、私のときは草食系が増えたのでそれ相応の企画も多くなった。サイトにはドクターが常駐しているのでリクレーション企画の相談にも乗ってもらった。大型バスをチャーターして何度もサハラ砂漠に旅行した。
個人的にもよく出掛けた。タクシーを使うと現地の人と接する機会が少なくなるので、積極的にバスを使った。女性と話す機会を作るために、日本式のおにぎり弁当を作って、食べている姿を珍しそうに覗きにくる女性に、食べてみる?と話しかけてお近づきになるきっかけを楽しんだ。
1カ月の休暇の半分はフランス・スイス・スペインで楽しんだ。一人旅の手作りプランで貴重な体験であった。
E.海外勤務で得たこと
紙面の都合で触れることはできなかったが、命の危険を感じることがあったり、人との葛藤が原因で鬱状態になったり、色々な苦い思い出があるため、少々のことには鈍感になって動じなくなった。何か困難に出くわしても、そのときを思い出すとどれも小さく見えてしまう。
価値観や文化の違いを体験したことも大きな収穫であった。日本という小さな島で違う考えの人が居ても、大した違いとは感じないようになった。
さらに最大の収穫は、宗教に対する考えがコペルニクス的に転回したことである。キリスト教会ではタブーになっている宗教多元主義に傾倒するようになったのはこのときからである。
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