4代目として後を継いだ息子の晴夫さんとは、考え方の違いから議論になることもあったそうです。「私も、老いては子に従えというのは知ってますけど、戦前派と戦後派では考え方が違うから。芯から喧嘩しちゃだめだけど倅を試すんですよ。やっぱり、ぶつかってくる勇気もないとね。でもまあ、わたしは92歳の半ばですが、年をとったら素直で頑固にならないと長生きできない。そうじゃないと、ぼけちゃうから」
小川の和紙について昌太郎さんは、「伝統は採算を考えたら守れない。しかし、きれいな言葉だけではそうそうできることではない。昔に逆戻りしなければいけないが、そうもいかない。ただ、今のように、原料の楮を高知産に頼りすぎるのも良くないと思う。買えなくなったら細川紙が作れなくなるから。もの作りは、今、作っていられればいいというものじゃあない。だから、小川(町)でも楮を作っていく。今、うちの楮畑はきれいに下草が刈ってある。これからどんどん肥料を入れて立派な楮を育てていく」と、最盛期も大不況の時代も経てきた昌太郎さんの目線は、まだまだ未来を見据えていらっしゃるようにみえます。
大正時代、創業の頃から変わらないたたずまいの紙すきの工場と母屋のある場所から徒歩で5分ほどのところに、ギャラリーと売店をかねた建物があります。そこの畳敷きの小上がりにある座椅子が昌太郎さんの定位置です。
売店の一角は、昌太郎さんのちぎり絵の制作場所です。気が向けば自分ですいた紙を使って作品作りをします。ただ、視力が落ちてしまい、以前ほど細かな作業は出来なくなってしまったそうです。2階のギャラリーには、以前制作した、上高地の○○橋や富士山などのちぎり絵の風景画がたくさん展示されています。
すでに紙すきの現場からは遠のいていますが、夏の間は、すぐ近くの楮の畑へ行き、毎日草取りをするのが大事な日課となっていらっしゃいます。 |