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久保昌太郎物語
  紙すきの里「小川町」  
 

小川町は埼玉県西部に位置し周囲を緑豊かな外秩父の山に囲まれた静かな町です。
1300年あまり前から続く手すき和紙の里として知られています。
楮100%で作られる小川の「細川紙」は、水に強く墨がにじまないとして、大福帳・土地台帳・傘紙などに広く利用されました。大消費地江戸にも近いという地の利もあり、江戸時代には、和紙の一大産地として飛躍的な発展をとげました。
しかし明治以降、機械化の流れの中で手すきの紙屋の件数は減り続けます。昭和の戦時下には、軍事用の用途に使われる和紙の需要が増え一時復活を遂げます。しかし、最盛期800軒を超えたという小川の手すき紙屋も機械漉きの発達、和紙の需要減などの要因で減少し続けました。
昭和51年に、小川の「細川紙」は、国の重要無形文化財の指定を受けました。
その伝統的な製造技術を受け継ぐ職人の1人が、久保昌太郎さんです。

 
     
   
  紙すき職人として  
 

久保昌太郎さんは、大正7年(1918年)2月5日生まれ、満92歳。小川町に生まれ育ちました。
紙すき工房の創業は大正2年。歴史と国語の教師だった昌太郎さんの祖父が興しました。昌太郎さんは3代目にあたります。
昌太郎さんは、13人兄弟の長男に生まれ、12歳(小学校6年生、1930年)の頃から、父母を手伝って、和紙の手すきを始めました。
その前の年の昭和4年(1929年)は、昭和大恐慌の年でした。戦前の恐慌のうちでも最悪のものとされ、日本は深刻な不況に陥りました。昌太郎さんはその時のことを、「あれが一番ひどい時期だった」と回想されます。
「紙の値が下って、全然、金にならなかった。米の値段ばかりどんどん上がった」
当時、昌太郎さんの下に10人も弟妹がいたのですが、母親はお乳の出が悪く、乳児にはミルクを買わなければなりませんでした。「本当は熊手を買うためのお金を持って、薬局でミルクを買った。楮を買うか、米を買うか、どっちかしか買えなかった」
「夏は水の温度が上がって流れる水では紙はすけない。でも分家で井戸がないから、本家まで井戸水をもらいに行ってた。でも本来、夏は田畑の仕事があるから、紙すきは冬だけの仕事。夏も紙すきやってるのは貧乏人の家だけ。借金だらけの自転車操業。父母が頭を抱えてるのを時々見ていた」
昌太郎さんは、弟妹の子守をしながら父母を助け、早くから仕事をせざるを得ませんでした。「学校はきらいだったが、なんとしても学問のないのはつらかった。だから、紙で日本一になるまでがんばるぞっと、そういう気が強い男だったんじゃないかと、自分でいうのも何ですが、そう思いますね」
後に家業を継いで、3代目となった昌太郎さんですが、昔の父母の苦労を目の当たりにしたこともあってでしょうか、「とにかく信用は無限の財産。どんなときでも手形を出せる分の金は、歯を食いしばって持っていた」といいます。
「職人はお客に好かれる紙をすかなけりゃならない。お客の言うことを素直に聞けることが大事だ」
「商売がだめになったとき、何でだめなのかようく考える人が事業主として残っていく。松下幸之助もそうだった。うまくいかない時は止まる。止まって周りをようく見ているうちに、自分の位置も見え、理解してくれる人も出てくるものだ」
取引先からは、「久保さんのすく紙には怖さが無い。いつもきちんと納めてくれるから」「お前の紙は安心だ。高くもなく安くもない」と信頼を得、銀行も昌太郎さんを信用して、随分と融通を利かせてくれたのだそうです。
70年もの間、紙すき職人として家族を支え、会社を守ってきた昌太郎さんの職人としての信念、商売人としての矜持が、言葉の端々から感じ取れます。

 
   
  一線を退いてこそ見えること  
 

4代目として後を継いだ息子の晴夫さんとは、考え方の違いから議論になることもあったそうです。「私も、老いては子に従えというのは知ってますけど、戦前派と戦後派では考え方が違うから。芯から喧嘩しちゃだめだけど倅を試すんですよ。やっぱり、ぶつかってくる勇気もないとね。でもまあ、わたしは92歳の半ばですが、年をとったら素直で頑固にならないと長生きできない。そうじゃないと、ぼけちゃうから」
小川の和紙について昌太郎さんは、「伝統は採算を考えたら守れない。しかし、きれいな言葉だけではそうそうできることではない。昔に逆戻りしなければいけないが、そうもいかない。ただ、今のように、原料の楮を高知産に頼りすぎるのも良くないと思う。買えなくなったら細川紙が作れなくなるから。もの作りは、今、作っていられればいいというものじゃあない。だから、小川(町)でも楮を作っていく。今、うちの楮畑はきれいに下草が刈ってある。これからどんどん肥料を入れて立派な楮を育てていく」と、最盛期も大不況の時代も経てきた昌太郎さんの目線は、まだまだ未来を見据えていらっしゃるようにみえます。

大正時代、創業の頃から変わらないたたずまいの紙すきの工場と母屋のある場所から徒歩で5分ほどのところに、ギャラリーと売店をかねた建物があります。そこの畳敷きの小上がりにある座椅子が昌太郎さんの定位置です。
売店の一角は、昌太郎さんのちぎり絵の制作場所です。気が向けば自分ですいた紙を使って作品作りをします。ただ、視力が落ちてしまい、以前ほど細かな作業は出来なくなってしまったそうです。2階のギャラリーには、以前制作した、上高地の○○橋や富士山などのちぎり絵の風景画がたくさん展示されています。
すでに紙すきの現場からは遠のいていますが、夏の間は、すぐ近くの楮の畑へ行き、毎日草取りをするのが大事な日課となっていらっしゃいます。

 
 
 
  太平洋戦争の極秘作戦  
 

昌太郎さんは、昭和13年(1938年)、結婚して4ヶ月と10日で召集令状を受け取りました。「軍方面司令部とかに、風船爆弾用の和紙をすいていることを言っておけば(令状は)こなかった。それを怠ったから召集されてしまった」
赤坂の歩兵第1連隊に配属となり、その後、中国山東省に赴きました。相手は毛沢東の軍隊と共産八路軍でした。
「明日は自分の番かなっていうほど、旧黄河の堤防で、同年兵がたくさん戦死しました」
「山東省が関東ぐらい、山東半島は四国ぐらいの大きさがある土地で、もう、その大きさは想像を絶した。夢の国だった…」
「軍隊は殺しっこの競争の場所」「わたしはずっと上等兵のままで帰ってこれたけど、伍長や軍曹になった人らはみんな南方に送られて死んでしまった」
「いやな場所でしたね、軍隊は」
昌太郎さんは、復員後、大量に発注されてきた、「風船爆弾」用の和紙の製造を行いました。軍の命令で約3年間、極秘の作戦の一端に参加したのでした。

 
  風船爆弾と小川の和紙  
 

風船爆弾は、和紙を何重にもこんにゃく糊で貼り合わせて作った気球に水素ガスを詰め、15㎏爆弾と焼夷弾2発を搭載し、太平洋上を吹くジェット気流(偏西風)に乗せてアメリカ本土を攻撃しようという史上初めての大陸間弾道弾ともいえる兵器でした。
気球は、日本陸軍、関東軍によって、昭和8年頃から対ソ連用の宣伝ビラ配布用として研究されてきたもので、昭和19年に風船爆弾として実用化しました。
風船爆弾は正式には「フ号作戦」と呼ばれました。気球の直系は約10m。約10000発が製造され、9300発が千葉や茨城の海岸から飛ばされました。約2日でアメリカ西海岸やカナダに到達。アメリカで確認されたのは360発あまりですが、約1000発が到達したとする推計もあります。
風に乗ってふわりふわりと飛んでくる得体の知れない風船が、アメリカ側に与えた心理的なプレッシャーは予想を超えたもののようでした。
住民のパニックを恐れ厳しい報道管制がしかれたため、爆弾と知らずに近づき、民間人が爆死したケースもありました。

ひとつの気球の製作に使われた和紙は約600枚にも及び、日本全国の手すき和紙の産地で秘密裏に製造が行われました。小川町では、気球の試作用としては、昭和8年ごろから和紙の発注があったようですが、本格的な発注は昭和18年以降でした。
大量の紙をすくために集められた職人は約10名。2尺2寸四方の正方形と193㎝×67㎝の長方形の2種類の紙をすきました。1日の生産ノルマは500枚にも及び、家族総出で作業に追われたといいます。
すいた紙は、小川町内や近隣町村の工場で、工場周辺の女性たちや女子学生らによって、こんにゃく糊で縦目、横目交互に5層に張り合わされ丈夫な気球紙となりました。さらに、東京の両国国技館や旧日劇、宝塚劇場などの広い場所で気球の形に張り合わされたのだそうです。
1日の生産ノルマの500枚とは、通常生産時の2倍の枚数でした。さらに、大砲の砲弾の内側に使用する砲兵紙など、他の軍事用の用途の紙の需要もあり、毎日重労働を強いられたことがうかがい知れます。ただ、皮肉にも軍事用和紙の需要増により、いったんは減った紙屋は、戦時下には500軒ほどに増え、様々な用途の製品を作ったおかげで紙すきの技術も向上した、との声もあるそうです。

 
 
 
  戦争の事実の継承を  
 

久保昌太郎さんは、小川町で風船爆弾の和紙をすいた職人の1人です。もうすでに、実体験を語れるのは、昌太郎さん1人になってしまいました。
「召集されて中国の戦線から帰ってきた後、主に昭和18年から20年にかけてすきました。私は紙をすいたり、卸したり。加工は別のところでした。秘密の作戦で、打ち上げは千葉から茨城にかけての九十九里が一番多かった。いや、アメリカ人はたまげたことはたまげたでしょうね。音も無くふわふわ飛んできて。日本人はすごいこと考えるもんだと驚いたんじゃないですか」
軍の命令ですくことになった気球用の紙。秘密の作戦ということで、戦後も多くは語られてきませんでした。
息子の晴夫さんは、「私が紙すきを始めたのは40年前。その頃は、気球の紙をすいた人はまだたくさんいたが、やはり隠されていたものだからか、誰も話したがらなかったように思う。まるで触れてはいけないことのように感じました」
「もう20年早ければ、まだまだ話してくれる人は生きていて、もっと正確な情報が得られたと思いますが、体験したのは、もう親父だけになってしまいましたね」

現在、風船爆弾についての資料は、江戸東京博物館、埼玉県平和資料館に模型の展示があります。埼玉県平和資料館では10年ほど前に、さまざまな文献をあたってまとめた資料集が作られました。アメリカのスミソニアン博物館にも、詳細な研究資料が残されています。
ただ、その内容を実体験として語り聞かせてくれる人は、もうほとんど残っていません。

 
  (嵯峨早苗・記)  
 
   
昌太郎さんのちぎり絵制作スペース   ちぎり絵ギャラリー(工房2階)   久保昌太郎和紙工房
 
  取材:知恵の継承研究所 2010年7月28日 
埼玉県小川町の久保昌太郎和紙工房にて
久保昌太郎さんと晴夫さんからの聞き取りをもとにしています。
 
  この編集内容に関するお問い合わせは:
(財)知恵の継承研究所  center@forwit.org
直接訪問される場合のお問合せ先は:
紙すきの村 久保昌太郎和紙工房 本工房 電話 0493-72-0436
 
 
     
  参照:
紙すきの村~久保昌太郎和紙工房~ http://homepage2.nifty.com/ogawa_washi/
ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/風船爆弾
 
     
   
     

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